
黒田 久一
惣菜のわかるオヤジのブログでは、フルックスグループ代表の黒田久一が、日々の出来事を発信いたします。
2019.02.14
久しぶりにブログを更新致します。
昨日、2月13日に、熊本日航ホテルで、ヒライさんの50周年記念式典が
盛大に行われました。
ヒライさんと言えば、熊本を中心に弁当惣菜業をされている会社です。
ご存知の方もたくさんいらっしゃるでしょう。
昨日は、全国各地から総勢300人以上の方々が集まりました。
基調講演は、元横浜市長の中田宏氏でした。
「そこまで言って委員会」にもよく出ている方です。
そして、主賓の挨拶は、蒲島熊本県知事でした。
そして、友人代表として、盛和塾の塾生の方と黒田久一の2人がスピーチしました。
九州の経済人が集結する中、とても緊張した中でのスピーチでしたが、
平井社長から、ご指名を受け、断る訳にも行きませんでした。
会の冒頭にヒライさんの50年の歴史が映像が流されました。
亡くなられた龍三郎会長も、何度も映像に出てきて、とても、胸が熱くなりました。
今、ヒライグループは、年商265億円。
超優良企業です。
ヒライさんと、僕が知り合うきっかけは、平成3年、つまり、今から28年前に
「食品商業」と言う雑誌にヒライさんの特集記事です。
それを本屋で発見して、とてもおもしろそうな弁当屋さんだと、
居ても立っても居らず、早速、あべのから夜行バスに乗って、
熊本交通センターへ行き、レンタカーを借りて一軒ずつお店を見て回りました。
あまりの繁盛店ぶりに度肝を抜かされ、奈良に戻ってから、勇気を振り絞って、
手紙を書きました。
平成3年と言えば、三晃(現フルックス)は、市場の天ぷら屋しかやっていなかったので、
年商は、2億円くらいだったと記憶します(天ぷら+カット野菜)。
天ぷら材料ビジネスも、まだまだ、商売にならず、僕は、市場の天ぷら屋で、
毎日、悶々としていた頃でした。
僕が31歳の時です。
正社員も5人もいなかった。
ヒライさんに書いた手紙は、当時、専務だった龍三郎会長の目に留まり、
三晃に電話がかかってきました。
「君、もう一度、熊本に来んね。いろいろと教えてあげる」と。
どこの馬の骨ともわからない、奈良の青年に対して、本当に有難い事でした。
すぐに再訪問し、朝礼に出され、緊張感みなぎる朝礼に感動を覚えました。
その後、何度となく、龍三郎会長に声がけをしてもらい、結局、翌年の平成4年に、
ヒライさんのご親戚の岡山津山市のつるやさんにて、半年間の修行に行く事になりました。
32歳の修行でした。
長男が3歳、次男が1歳でした。
家内と2人の子供を伴い、津山の安アパートを借りて、夫婦で、工場に入り、
教えてもらいました。
昨日は、スピーチをしている最中、一連の事を、思い出してしまい、
少し声が詰まってしまいました。
そうすると、後ろの方で、立って聞いておられたヒライの社員さんの中に、
泣く社員の方がいらっしゃいました。
そして懇親会が始まり、ヒライの社員さんたちが、僕の席に来られ、
記念撮影をいっぱい撮って頂きました。
思い出せば、本屋で、あの記事を見ていなったら・・・。
そして、記事を見ても、そのまま、熊本に行かなかったら・・・。
そして、勇気を振り絞って、あの時、下手くそな手紙を書かなかったら・・・。
それくらい、平成3年の頃は、どうやって、市場の天ぷら屋から抜け出し、
新たなステージに移行したらいいのか、毎日毎日、考えていました。
「出会い」とは、本当に不思議なご縁です。
昨日、平井浩一郎社長が、ご挨拶の中で、「現時点では、とても順調ですが、
必ず、世の中が変わると、今の商売はすたれます。だからこそ、
次の商売に果敢に挑戦し続けないと未来はない」と、全く同感でした。
昨日の素晴らしい記念式典に参加させて頂きながら、28年前に書いた一通の手紙が
僕の人生に大きな影響を与えた事を思い出していました。
あの時、恥ずかしがらず、躊躇せず、純粋にストレートに自分の気持ちを伝えて
良かったと思います。
黒田久一
2018.12.30
いよいよおせち作りがピークに
恒例ですが、弊社グループの味の大和路のお節が本格的に生産が始まりました。
今年もたくさんのご注文を頂き感謝申し上げます。
準備は、ほぼ1年間、つまり、毎年、正月明けから反省会をし、毎月のように会議を積み重ねて来ました。
惣菜事業の集大成でもあります。
あとは、キチンとお客様のところに届けられるよう努力して参ります。
黒田久一
2018.12.27
久しぶりにブログ更新させて頂きます。
本年も残すところあと5日となりました。
平成最後の年末です。
さて、ご報告があります。
創業でもあり、私の母、黒田竹美が、11月14日に旅立ちました。
先日の第70回「惣菜のわかる八百屋塾」の前日でありました。
いつも笑顔の素晴らしい母でした。
本日で、満中陰法要も無事に終えることが出来ました。
「平成」という一つの区切りをまもなく迎えます。
弊社フルックスグループの創業者の4人の遺志をしっかりと受け継ぎ、新年度以降の新たな未来に、これからも、一歩ずつ前進して行きたいと思います。
下記、告別式当日にご弔問の皆様に配布させて頂いたお手紙です。
ご一読いただければ幸いです。
フルックスグループ
代表 黒田久一
母、黒田竹美は、平成30年11月14日午前11時7分、家族に看取られながら、
静かに旅立ちました。
昭和7年生まれの満86歳の生涯でした。
ちょうど10年前、不慮の事故で脳挫傷となり、一時は、脳死に近いと判定されながらも、奇跡的な快復を果たし、10年間、病床から、家族を、そして、心から愛する会社や社員たちをずっと見守ってくれていました。
昨年、平成29年5月16日、同じ病院でお世話になっておりました父が旅立ちましたが、病院のご配慮で、最期は、同じ病室で過ごすことが出来ました。
想い起こすと母はとても優しい性格でした。とても厳格な父とは対照的で、私も姉も、小さい頃から怒られたり、勉強をしなさいなどと、言われた記憶が全くありませんでした。
会社でも同じで、商売に厳しく向き合う父の裏方には、常に優しい母の存在がありました。
両親は、本当に名コンビだったような気がします。
母は、愛媛県温泉郡中島町(現松山市)の怒和(ぬわ)島と言う、小さな島の出身です。
そこは、中島みかんの産地であり、母は農協の職員として働いていました。
父は、大手青果荷受会社のセリ人でした。みかん産地で出会い結婚しました。
二人ともみかんのプロでした。
母は、旧満州(中国黒竜江省)のハルピンで幼少期を過ごしました。
終戦直前に母親をハルピンで亡くし、命からがら、父親と6人の兄弟姉妹と共に引き揚げて来ました。
私は、幼い頃、そのハルピンの話をよく聞かされていました。
極寒の地であるハルピンでは、真冬になると、雄大な大河である松花江(しょうかこう)は、かちんこちんに凍り、そこでよくアイススケートをしたらしいです。
今、想い起こすと、母の優しさは、温暖な瀬戸内で育まれ、一方、強靭な粘り強い精神力は、極寒の地ハルピンで身に付いたのではないかと思います。
来年の桜の花が綺麗な頃、両親の遺骨を穏やかな瀬戸内の海に、そして、ハルピンの松花江の大河に散骨したいと思います。
昭和39年に、両親と二人のパートナーのたった4人で興した三晃青果株式会社も、おかげさまで、今年で設立55年目となり、今では、社員数140名、パートさん700名余りの会社になりました。
両親への一番の供養は、この会社を永続的に発展させることかと思います。
これまで、黒田竹美、黒田一郎にたくさんのご厚誼を賜り厚く御礼を申し上げます。
両親なきあとも、引き続き、皆様とのご縁を大切にし、お力添えを心よりお願い申し上げます。
竹美愛用の小切手用チェックライター
黒田一郎・竹美 揃って見送りました